防災・減災講座の感想と反省点 ― 2017年03月25日 11時30分
3月20日の横浜市緑区防災・減災講座のアンケート結果が
実行委員の田中晃様から送られてきました。
まずもってお彼岸での講座に足をお運びくださった地域の
皆様に御礼申し上げます。
また実行委員の方々の企画段階から講座後の調査までの
地道な取り組みには本当に頭が下がります。
さて、アンケートと感想では
・土砂災害の専門的な定義を知りたいと思っていたので、
参考になった。
・過去の地震発生時の避難事例は参考になった。
・講座の内容が分かりやすかった。
と概ね好評だったようでホッとしました。
が、中にお一人だけ
・松村先生の資格自慢が気になった。講座の内容が良かった
だけに残念
と書かれた方がいらっしゃいました。
「はて、講座の中で資格自慢などしただろうか」
日ごろから自分の実力のなさを痛感し、実際に活動されて
いらっしゃる方への尊敬心を持ち続けているつもりでいた
私でしたが、そのように受け取られる発言をしたという
ことで、深く反省しました。
思い返すと多分、「まちづくり」という言葉をめぐっての
私の解説が不適切だったのではないかと思います。
私は岐阜大学大学院進学前は土木の技術者として勤務
していた訳ですが、それまでの経歴を全て捨て、
会社に辞表を出して進学する決断をするまでの個人的な
問題の葛藤や挫折をこれまで公表したこともないし、
今後もそこには触れるつもりもありません。
ただ、事実としてはっきりしているのは、私が大学院に
進学した1987(昭和62)年頃から、国(特に当時の建設省)
も国づくりの方向転換をしつつあったのです。
また、あの頃は何故か新聞社などがこぞってまちづくりの
懸賞論文を募集していて、収入がない私は懸賞金にも魅力を
感じて片っ端から応募しました。
よりよい論文にしたかったので、関係機関にはしつこい
くらい質問したり何度も足を運びました。
いまのようにインターネットなど普及していなかった時代
です。
幸い、どの方々も熱心に私の質問に耳を傾け、かつ本音で
都市づくりのあり方、道づくりの過去の過ちも含めた
これからの方向性について語ってくださったのです。
(皆さん、私のことを良く覚えてくださっています。)
さらに嬉しかったのは中日新聞(建設省共催だったか?)の
論文も朝日新聞(岐阜支局?)の論文も賞を取ることが
でき、懸賞金も手にすることができました。
また修士論文の傍ら岐阜県の全市町村をオートバイで
訪問して書いた本が話題になったのも幸運でした。
この本は自費出版でしたがこのとき知り合った自治体の
職員や首長との縁も深くなり、地域の住民の方々とも
大勢知り合いになることができました。
当時知り合った方々とは今でも年賀状をやり取りしています。
論文でも本の中でも、各種シンポジウムの中でも、
私が一貫して発言してきたのが
「地域固有の歴史や文化を大切にする」
「地域の住民が計画策定の段階から参加する仕組みをつくる」
でした。
しばらく前まではちょっと異端な発言でしたが、ようやく
国や自治体がこれらの意見に耳を傾けるようになってきた
のです。
さらに想定外の出来事が、(望んでもいなかった)私の
知名度を上げることになってしまいました。
私が250ccのオートバイで岐阜県の全99市町村を訪問して
書いた『ぎふの花街道』が話題になり、NHKはじめほぼ
すべてのテレビ局が次々に取材にきたのです。
(NHKの影響力は大きいです。以後雑誌社からの取材も…)
結果、私は研究者としてではなく「ライダーみち子」
として有名になってしまいました。
当時住んでもいなかったテレビ神奈川(tvk)からも
出演の依頼がきて、何度か出させていただきましたし、
岐阜テレビで経営者訪問インタビュー番組のキャスターを
1年半務めることになったのも「花街道」がきっかけだと
思います。
で、たぶんそれらが積み重なって自治体や国の委員に起用
されるようになったのだと私は思っています。
横浜市の講座では、これらの話には一切触れず、
「大学院在学中に住民参加のまちづくりの大切さを
機会があるごとに発言してきた。ちょうど国もまちづくりの
方向性を転換しようとしていたこともあり、考えてみたら
Uターンした最先端に私がいるような位置づけになり、
国の委員などに起用されるようになった」
みたいな言い方になってしまいました。
確かにこれだけでは「経歴自慢」と受け止められますね。
大事なことに気づかされました。
これからは、人に経歴自慢のように受け止められるような
発言をしないよう、さらに謙虚な気持ちで情報提供して
いきたいと思っております。
不快に思われた方には心よりお詫び申し上げます。
また、忌憚なく書いてくださった方には御礼申し上げます。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
岐阜テレビキャスター時代の名刺です。
はい。しっかり「ライダーみち子」として活動してました。
番組名はトップインタビューの「ちょっといっぷく」、
その後文化人との対談「忙中閑談」も担当しました。
(15分番組ですが、撮影には半日以上、飛騨の方だと
泊まりがけで丸2日となり、結構忙しかったです。)
実行委員の田中晃様から送られてきました。
まずもってお彼岸での講座に足をお運びくださった地域の
皆様に御礼申し上げます。
また実行委員の方々の企画段階から講座後の調査までの
地道な取り組みには本当に頭が下がります。
さて、アンケートと感想では
・土砂災害の専門的な定義を知りたいと思っていたので、
参考になった。
・過去の地震発生時の避難事例は参考になった。
・講座の内容が分かりやすかった。
と概ね好評だったようでホッとしました。
が、中にお一人だけ
・松村先生の資格自慢が気になった。講座の内容が良かった
だけに残念
と書かれた方がいらっしゃいました。
「はて、講座の中で資格自慢などしただろうか」
日ごろから自分の実力のなさを痛感し、実際に活動されて
いらっしゃる方への尊敬心を持ち続けているつもりでいた
私でしたが、そのように受け取られる発言をしたという
ことで、深く反省しました。
思い返すと多分、「まちづくり」という言葉をめぐっての
私の解説が不適切だったのではないかと思います。
私は岐阜大学大学院進学前は土木の技術者として勤務
していた訳ですが、それまでの経歴を全て捨て、
会社に辞表を出して進学する決断をするまでの個人的な
問題の葛藤や挫折をこれまで公表したこともないし、
今後もそこには触れるつもりもありません。
ただ、事実としてはっきりしているのは、私が大学院に
進学した1987(昭和62)年頃から、国(特に当時の建設省)
も国づくりの方向転換をしつつあったのです。
また、あの頃は何故か新聞社などがこぞってまちづくりの
懸賞論文を募集していて、収入がない私は懸賞金にも魅力を
感じて片っ端から応募しました。
よりよい論文にしたかったので、関係機関にはしつこい
くらい質問したり何度も足を運びました。
いまのようにインターネットなど普及していなかった時代
です。
幸い、どの方々も熱心に私の質問に耳を傾け、かつ本音で
都市づくりのあり方、道づくりの過去の過ちも含めた
これからの方向性について語ってくださったのです。
(皆さん、私のことを良く覚えてくださっています。)
さらに嬉しかったのは中日新聞(建設省共催だったか?)の
論文も朝日新聞(岐阜支局?)の論文も賞を取ることが
でき、懸賞金も手にすることができました。
また修士論文の傍ら岐阜県の全市町村をオートバイで
訪問して書いた本が話題になったのも幸運でした。
この本は自費出版でしたがこのとき知り合った自治体の
職員や首長との縁も深くなり、地域の住民の方々とも
大勢知り合いになることができました。
当時知り合った方々とは今でも年賀状をやり取りしています。
論文でも本の中でも、各種シンポジウムの中でも、
私が一貫して発言してきたのが
「地域固有の歴史や文化を大切にする」
「地域の住民が計画策定の段階から参加する仕組みをつくる」
でした。
しばらく前まではちょっと異端な発言でしたが、ようやく
国や自治体がこれらの意見に耳を傾けるようになってきた
のです。
さらに想定外の出来事が、(望んでもいなかった)私の
知名度を上げることになってしまいました。
私が250ccのオートバイで岐阜県の全99市町村を訪問して
書いた『ぎふの花街道』が話題になり、NHKはじめほぼ
すべてのテレビ局が次々に取材にきたのです。
(NHKの影響力は大きいです。以後雑誌社からの取材も…)
結果、私は研究者としてではなく「ライダーみち子」
として有名になってしまいました。
当時住んでもいなかったテレビ神奈川(tvk)からも
出演の依頼がきて、何度か出させていただきましたし、
岐阜テレビで経営者訪問インタビュー番組のキャスターを
1年半務めることになったのも「花街道」がきっかけだと
思います。
で、たぶんそれらが積み重なって自治体や国の委員に起用
されるようになったのだと私は思っています。
横浜市の講座では、これらの話には一切触れず、
「大学院在学中に住民参加のまちづくりの大切さを
機会があるごとに発言してきた。ちょうど国もまちづくりの
方向性を転換しようとしていたこともあり、考えてみたら
Uターンした最先端に私がいるような位置づけになり、
国の委員などに起用されるようになった」
みたいな言い方になってしまいました。
確かにこれだけでは「経歴自慢」と受け止められますね。
大事なことに気づかされました。
これからは、人に経歴自慢のように受け止められるような
発言をしないよう、さらに謙虚な気持ちで情報提供して
いきたいと思っております。
不快に思われた方には心よりお詫び申し上げます。
また、忌憚なく書いてくださった方には御礼申し上げます。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
岐阜テレビキャスター時代の名刺です。
はい。しっかり「ライダーみち子」として活動してました。
番組名はトップインタビューの「ちょっといっぷく」、
その後文化人との対談「忙中閑談」も担当しました。
(15分番組ですが、撮影には半日以上、飛騨の方だと
泊まりがけで丸2日となり、結構忙しかったです。)
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。